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シャンソン歌手として活動を始め、料理愛好家としてテレビや著書でも幅広く活躍する平野レミさん。
家族がおいしいと言った料理を大切にし、「キッチンから幸せ発信」という思いを掲げてきたことからも、食卓と家族を結びつけながら歩んできた姿が伝わります。
そんな平野レミさんをめぐっては、平野レミさんの家系図そのものに加え、父親や母親から受け継いだルーツ、子供は何人なのかという家族構成にも関心が集まっています。さらに、上野樹里さんとの家族のつながりや、家系にナポレオンの名が登場する話など、一族をたどる中で気になるテーマも広がっており、料理で親しまれてきた姿とはまた違う角度から注目されています。
この記事では、平野レミさんの家族関係とルーツを中心に、家系図を読み解くうえで押さえておきたい範囲を順に見ていきます。
平野レミの家系図からたどる先祖と海外ルーツ
- 家系図でたどる祖父ヘンリー・パイク・ブイと祖母・平野駒
- ナポレオンとの関係が語られる理由とジョゼフィーヌ側の血縁説
- 先祖はスコットランドのブイ家へどうつながるのか
- 父・平野威馬雄が受け継いだ日米のルーツと歩み
- ハーフではなくクオーターとされる理由と東京都出身の経歴
家系図でたどる祖父ヘンリー・パイク・ブイと祖母・平野駒
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平野レミさんの父方の祖父はアメリカ人のヘンリー・パイク・ブイさん、祖母は日本人の平野駒さんで、2人の間に父・平野威馬雄さんが生まれています。
この祖父母の組み合わせが、平野レミさんの家系をたどるうえで大きな起点となります。
2026年1月12日に放送されたNHK『ファミリーヒストリー 平野レミ〜誇り高きブイ家 愛に生きた一族〜』では、明治時代に来日したヘンリーさんと平野家とのつながりが取り上げられました。番組では、平野レミさんの家庭で代々親しまれてきた「牛トマ」を最初に作った人物としてもヘンリーさんが紹介されています。海外から日本へ渡ってきた祖父が、家族の食卓にまで足跡を残しているところは、料理愛好家として知られる平野レミさんの家系らしい興味深い部分です。
ヘンリーさんは日本文化や美術に深い関心を持った人物でした。平野レミさんの家系を扱った記事では、アメリカで育った後にパリへ渡り、音楽を学ぶ一方で日本美術への関心を強めた歩みが紹介されています。とりわけ浮世絵などに魅せられ、日本との縁を深めていったとされます。単に外国人男性が日本人女性と結婚したというだけでなく、日本の芸術や文化そのものに強く引かれていた人物だったことが見えてきます。
その日本で結ばれたのが平野駒さんです。2人の間に生まれた平野威馬雄さんは、アメリカ人の父と日本人の母を持つことになります。平野レミさんから見ると、ヘンリーさんと駒さんが父方の祖父母にあたり、国をまたいだ家族の歩みが一世代前ではなく二世代前から続いている形です。当時は外国にルーツを持つ子どもへの偏見が強い時代でもあり、威馬雄さんは成長する中でつらい経験も重ねました。この経験は、後の文学活動や子どもたちへの支援にも深く関わっていきます。
祖母の駒さんについては、祖父ほど多くの経歴が語られているわけではありませんが、家系の中では欠かせない存在です。NHKの番組紹介でも、ヘンリーさんが駒さんと結ばれ、その後に威馬雄さんが誕生した流れが明確に示されています。アメリカ側のブイ家と日本の平野家を結ぶ位置にいたのが駒さんだったと考えると、現在の平野レミさんへ続く家系の形も分かりやすくなります。
さらに、平野レミさん自身が幼い頃から家族の食卓を身近に感じて育ったことも見逃せません。remyのコラムでは、小学生の頃から母親を手伝って台所に立ち、創作料理まで楽しんでいたと振り返っています。祖父ヘンリーさんの代から料理にまつわる話が残り、父母の家庭を経て平野レミさんへと続いている点を見ると、この家系は血縁だけでなく、食や文化を介して世代がつながっていることも伝わってきます。
ナポレオンとの関係が語られる理由とジョゼフィーヌ側の血縁説
平野レミさんの家系には、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ側と祖先がつながっているという説が伝えられています。
ただし、その系譜を裏付ける確かな根拠までは示されておらず、平野レミさんを「ナポレオンの子孫」と断定できる状態ではありません。
この話で特に区別しておきたいのが、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト本人との血縁と、最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ側とのつながりです。平野家にまつわる話として出てくるのは、ナポレオン本人の直系につながるという内容ではなく、ジョゼフィーヌ側との血縁説です。この2つを同じ意味として受け取ると、家系の説明が大きく変わってしまいます。
ナポレオンとジョゼフィーヌの間には実子がいませんでした。ジョゼフィーヌにはナポレオンと結婚する前の夫との間に子どもがいましたが、ナポレオンとの間に生まれた子ではありません。そのため、仮に平野レミさんの祖先とジョゼフィーヌ側の家系とのつながりが証明されたとしても、それだけを理由に「ナポレオンの血を引いている」「ナポレオンの直系子孫である」とすることはできません。この点が、ナポレオンという名前だけが独り歩きしやすいところです。
では、なぜ平野レミさんの家系とフランス皇帝の周辺が結びつけて語られるのでしょうか。平野レミさんの父・平野威馬雄さんはフランス文学者として活動し、フランス文化と深い関わりを持っていました。さらに父方の祖父ヘンリー・パイク・ブイさんの一族にはヨーロッパにつながる系譜があり、2026年のNHK『ファミリーヒストリー』では、そのルーツがスコットランドにあることが紹介されています。こうした国際色のある家系と、家族に伝わってきたジョゼフィーヌ側の話が重なり、ナポレオンとの関係が長く注目されてきたと考えられます。
大切なのは、「家族に伝わる話」と「系譜としてたどれる範囲」を分けて見ることです。家族の間で語り継がれる話には、その一族が自分たちのルーツをどう受け止めてきたのかが表れます。一方で、歴史上の人物との血縁を断定するには、世代ごとの親子関係が連続してたどれる記録や系図などの裏付けが求められます。ジョゼフィーヌとのつながりについては、そこまで明確な形では示されていません。
したがって、平野レミさんとナポレオンを結びつける際は、「ナポレオンの子孫」と短く言い切るより、ジョゼフィーヌ側との血縁説が家系にまつわる話として伝わっている、と捉えるほうが実態に近いでしょう。華やかな歴史上の人物の名前に目を奪われがちですが、平野レミさんの家系でより具体的にたどれる海外ルーツは、祖父ヘンリーさんからスコットランドのブイ家へ続く流れです。
先祖はスコットランドのブイ家へどうつながるのか
平野レミさんの父方の祖父ヘンリー・パイク・ブイさんはアメリカ人ですが、そのブイ家のさらに古いルーツはスコットランドへとつながっています。
2026年のNHK『ファミリーヒストリー』では、ブイ家がスコットランドに由来し、先祖には王直属のワインマスターを務めた人物がいたことが紹介されました。
家系の流れを近い世代から見ると、平野レミさんの父が平野威馬雄さん、その父がヘンリー・パイク・ブイさんです。ヘンリーさんはアメリカ出身なので、「祖父がアメリカ人」という説明だけでも間違いではありません。ただし、ヘンリーさんの一族をさらにさかのぼると、ブイ家そのものの起源がスコットランドへ続いているため、平野レミさんにはアメリカを経由したスコットランド系の祖先がいることになります。
NHKの番組では、ブイ家を「スコットランドにルーツを持つ名家」として紹介しています。さらに、古い時代の一族には王に仕えるワインマスターを務めた人物がいたとされています。ワインマスターという役目は現代の飲食店でワインを扱う仕事とは意味合いが異なり、王侯の宮廷に関わる役職として語られているものです。遠い先祖の段階までさかのぼると、平野レミさんの家系が日本とアメリカだけで完結せず、ヨーロッパへ広がっていることが分かります。
一方で、スコットランドの古いブイ家からアメリカへ渡った一族のすべての世代が、一般向けに細かく示されているわけではありません。現在までに広く紹介されている内容から押さえやすいのは、スコットランドを起源とするブイ家の流れの先にアメリカで暮らす一族がおり、その系統からヘンリーさんが生まれ、やがて日本へ渡ったという大きな道筋です。古い世代を無理に一人ずつつなげるより、この範囲で捉えるほうが家系を理解しやすくなります。
ヘンリーさん自身も、海外と日本文化を結ぶような人生を送りました。アメリカで育ちながらヨーロッパへ渡り、音楽や芸術に親しみ、日本美術にも強い関心を持ったとされています。その後、日本を訪れて平野駒さんと結ばれ、息子の平野威馬雄さんが誕生しました。つまり、スコットランドに始まる一族の流れがアメリカへ渡り、ヘンリーさんの来日をきっかけに日本の平野家と結びついたことになります。
この系譜をたどると、平野レミさんの「海外ルーツ」という表現にも複数の層があることが分かります。直近の祖父という意味ではアメリカ、さらに祖父の一族をさかのぼればスコットランドです。父・威馬雄さんはそのアメリカ側と日本側の両方を受け継ぎ、平野レミさんへと家系が続きました。料理、文学、音楽など異なる文化に自然と親しんできた平野家を知るうえでも、この国境を越えた流れは印象的な部分です。
父・平野威馬雄が受け継いだ日米のルーツと歩み
平野レミさんの父・平野威馬雄さんは、アメリカ人の父ヘンリー・パイク・ブイさんと、日本人の母・平野駒さんの間に生まれたフランス文学者です。
日米双方にルーツを持つ自身の生い立ちは、文学活動だけでなく、戦後に子どもたちを支える活動へ踏み出す大きな要因にもなりました。
威馬雄さんは1900年生まれで、フランス文学者や詩人として知られています。『ファーブル昆虫記』の訳者としても紹介されるなど、フランス文学を中心に幅広く文筆活動を続けました。父がアメリカ人、母が日本人だったため、幼い頃から周囲との違いを意識せざるを得ない場面があり、当時の差別的な呼び方によって傷つけられる経験もしたといいます。現在とは社会の受け止め方が大きく異なっていた時代であり、その生い立ちは威馬雄さんのその後の行動にもつながっていきました。
戦後の1953年、威馬雄さんは仲間とともに、当時「混血児」と呼ばれて差別や生活上の困難に直面していた子どもたちを助ける活動を始めています。remyで平野レミさんが語ったところでは、父親を知らない子どもも多く、威馬雄さんはそうした子どもたちを自宅で世話することもありました。支援活動は長く続き、1980年代に解散するまで約2000人を支えたとされています。自身が子どもの頃に受けた痛みを、その後の世代を助ける力へ変えていった歩みがうかがえます。
その活動は、平野レミさんの幼少期の家庭にも直接影響していました。家には多くの子どもが出入りし、一緒に過ごすこともあったため、食事の支度は大仕事だったそうです。平野レミさんは小学生の頃から母親を手伝って台所に立ち、その中で創作料理も楽しむようになったと振り返っています。父の支援活動と、母が大人数の食卓を支えた日々が、後に料理愛好家となる平野レミさんの原点の一つになっているところが興味深いです。
幼い平野レミさんが、家に迎えられた子どもたちと自分のどちらが大切なのかを父に尋ねたこともありました。すると威馬雄さんは、パンを半分に割ったときに「どちらがおいしいか」と聞くようなものだという趣旨で答え、どちらも同じように大切だと伝えたそうです。子どもの寂しさを否定せず、身近なたとえで受け止めたところに、威馬雄さんの人柄が表れています。
威馬雄さんは娘の生き方にも大きな影響を与えました。学校生活に悩んだ平野レミさんに、好きなことを思いきりやるよう背中を押したとされ、後にシャンソンの道へ進むきっかけにもつながりました。平野レミさんが明るく自由な発想で料理や歌に向き合ってきた姿の奥には、型にはめるより本人の好きな道を尊重した父親の存在があります。日米のルーツを背負いながら文学と社会活動に取り組んだ威馬雄さんの歩みは、平野レミさんの家系を理解するうえで中心となる部分です。
ハーフではなくクオーターとされる理由と東京都出身の経歴
平野レミさんは父親がアメリカ人と日本人の間に生まれたハーフにあたるため、家系上は平野レミさん自身をクオーターと捉えるのが一般的です。本人は1947年3月21日生まれで、東京都出身として紹介されています。
家系を一世代ずつ見ると分かりやすくなります。父の平野威馬雄さんは、アメリカ人のヘンリー・パイク・ブイさんと日本人の平野駒さんの間に生まれました。そのため威馬雄さんは父母の一方が外国人という家系です。平野レミさんは、その威馬雄さんと日本人の母・平野清子さんの娘なので、祖父母4人のうち父方の祖父に海外のルーツを持つ形になります。こうした家系から、平野レミさんはハーフではなくクオーターと表現されます。
ただし、祖父ヘンリーさんの「国籍・出身地」と、さらに古い一族の「ルーツ」は分けて考えると理解しやすいでしょう。ヘンリーさんはアメリカ人として紹介されていますが、ブイ家そのものをさかのぼるとスコットランドにつながります。したがって、「祖父はアメリカ人」「さらに古い先祖はスコットランド系」という2つの説明は両立します。平野レミさんがどこの国の出身なのかという点については、日本の東京都出身であり、海外生まれというわけではありません。
平野レミさんは東京都で育ち、小学校、中学校を経て都立上野高校へ進みました。学生時代から型にはまることを好まないところがあったようで、高校時代には制服に下駄を合わせて通っていたという印象的な話も残っています。高校2年生の頃に学校を離れることを決め、父・威馬雄さんに伝えた際には、父から好きなことをやるよう勧められたと振り返っています。進学の道だけにこだわらず、自分が関心を持てる分野へ進んでいった姿がうかがえます。
その後は文化学院で学び、声楽家の佐藤美子さんから発声を教わりました。幼い頃からシャンソンが流れる家庭で育った平野レミさんにとって、歌は身近な存在だったようです。やがてオーディションに合格し、シャンソン歌手として活動を始めました。1970年には『魅惑のバイヨン』でレコードデビューし、ラジオの仕事にも進出します。TBSラジオの『ミュージック・キャラバン』では久米宏さんと共演するなど、料理で広く知られる以前から芸能の世界で活動していました。
1972年にはイラストレーターの和田誠さんと結婚し、子育てを経て、のちに料理愛好家として活動の幅を広げていきます。家庭で作り続けてきた料理を土台に、テレビや著書で独創的なレシピを紹介するようになりました。現在の明るい料理家としての印象だけを見ると、若い頃から料理一本で歩んできたようにも思えますが、実際には歌手、ラジオ出演、結婚、子育てというさまざまな時期を経ています。
東京都で生まれ育った日本人でありながら、父方にはアメリカ、さらにさかのぼるとスコットランドへ続く家系を持つ平野レミさん。父がフランス文学に携わり、自身はシャンソンを歌い、その後は日本の家庭料理を独自の発想で伝えてきました。国籍や呼び方だけでは収まりきらない文化の重なりが、平野レミさんの経歴と家系の大きな特徴といえるでしょう。
平野レミの家系図で見る家族構成と和田家へのつながり
- 母・平野清子との暮らしと料理好きにつながった家庭環境
- 夫・和田誠との結婚から始まった家族の歩み
- 子供は何人なのか―長男・次男と三男坊と呼ばれる人物の違い
- 長男・和田唱と上野樹里の結婚で広がった家族関係
- 次男・和田率と和田明日香が受け継ぐ食のつながり
- 平野レミの家系図を総括―先祖から現在の家族まで
母・平野清子との暮らしと料理好きにつながった家庭環境
平野レミさんの母は平野清子さんで、料理上手な母のそばで台所を手伝った幼少期が、平野レミさんの料理好きにつながる大きな原点になっています。
父・平野威馬雄さんの活動によって家に多くの子どもたちが集まる環境でもあり、食事を作ることは平野家の日常そのものだったようです。
平野レミさんは自身の幼い頃について、母親の手伝いをしながらよく台所に立っていたと振り返っています。父の威馬雄さんは、戦後に厳しい境遇に置かれた子どもたちを支援し、自宅で面倒を見ることもありました。そのため平野家の食卓は人数が多く、食事の支度も簡単ではありませんでした。まだ小学生だった平野レミさんも清子さんを手伝い、家族だけに限らない大勢の人のために料理を用意する暮らしを身近に見ていたことになります。
特に印象的なのは、清子さんが娘の料理に細かく口を出す母親ではなかったという点です。平野レミさんは、子どもの頃に自分なりの料理を作って台所を散らかしても、母から強く止められなかったという趣旨の思い出を語っています。包丁を使ったり思いつくままに料理したりしても、すぐに否定されるのではなく、自由に挑戦させてもらえたそうです。現在の平野レミさんが、型にはまらない料理を次々と思いつく姿にも通じる家庭環境だったのでしょう。
料理を職業として教え込まれたというより、暮らしの中で自然に台所へ入り、自分で試しながら覚えていったところが平野レミさんらしいところです。母が上手に料理を作る姿を見るだけではなく、実際に自分の手を動かせたことが大きかったと考えられます。後年の平野レミさんは、家庭で家族に食べてもらう料理を大切にし、自身の料理をシェフの料理ではなく「シュフ料理」と表現してきました。その考え方をたどると、幼い頃に家族のための料理を目の前で見てきた経験とのつながりが見えてきます。
父の威馬雄さんが外から多くの子どもたちを受け入れる一方、家庭の中で毎日の食卓を支えていた清子さんの役割も大きかったはずです。平野レミさんが語る幼少期には、父の強い信念だけでなく、母と一緒に料理をする日常が繰り返し登場します。特別な日の豪華な料理ではなく、大人数が集まる家庭で毎日食べるものを作る経験が、後の実用的で大胆な料理の感覚につながっていったと見ることができます。
平野レミさんは成長後、まずシャンソン歌手として活動し、結婚と子育てを経てから料理愛好家として広く知られるようになりました。そのため、幼い頃の台所経験がすぐに職業へ結びついたわけではありません。それでも、長い時間を経た後に料理の世界で活躍するようになったことを考えると、清子さんと過ごした台所の記憶が平野レミさんの中にしっかり残っていたことがうかがえます。
現在の平野レミさんの料理には、失敗を恐れず試してみる自由さと、家族がおいしく食べられることを重んじる感覚が共存しています。幼い娘の発想を頭ごなしに止めず、日々の料理を一緒に経験させた清子さんとの関係は、その姿勢の原点を知るうえで欠かせない部分といえるでしょう。
夫・和田誠との結婚から始まった家族の歩み
平野レミさんの夫は、イラストレーターや映画監督など幅広い分野で活躍した和田誠さんで、2人は1972年に結婚しました。
出会ってから短期間で結婚を決めたことで知られ、その後は2人の息子を育てながら、料理や音楽、デザインが自然に交わる家庭を築いていきました。
2人の出会いにはラジオが関わっています。平野レミさんがTBSラジオの『ミュージック・キャラバン』などで活動していた頃、和田誠さんがその声に興味を持ち、知人を通じて紹介を頼んだことがきっかけになったとされています。平野レミさんは当時、料理の人としてではなくシャンソン歌手やラジオ出演者として活動していました。現在の印象から見ると意外に感じるかもしれませんが、和田誠さんとの縁は料理番組ではなく、歌や声の仕事から始まったことになります。
2人は出会ってからほどなく結婚を決めました。期間については「1週間ほど」「10日ほど」など複数の紹介がありますが、非常に短い交際期間で結婚へ進んだという点は共通しています。長い時間をかけて慎重に距離を縮めたというより、互いに強く引かれ、一気に家族になった夫婦でした。平野レミさんの思い切りのよい性格を思わせると同時に、和田誠さんにもその感性を受け止める柔らかさがあったことを感じさせるエピソードです。
結婚後には長男の和田唱さん、次男の和田率さんが生まれました。平野レミさんは一時、子育てや家庭を中心に過ごし、その中で毎日の食事を作り続けています。後にテレビで知られることになる独創的な料理の多くも、料理人の厨房で磨かれたものではなく、家族に食べてもらう日常の中から生まれました。和田誠さんは料理を食べる側としても平野レミさんを支え、味について頭から否定するのではなく、足りないところを伝えるような言い方をしていたと平野レミさんは語っています。
その接し方は、平野レミさんが次の料理を試すうえでも励みになったようです。うまくいかなかった料理に対して単にまずいと言われれば、作る側は気持ちがしぼんでしまいます。ところが和田誠さんは、どこを変えればよりおいしくなるかを考えられるような言葉を返していたといいます。家庭料理をめぐるやり取りに、互いの仕事や発想を尊重していた夫婦の空気が表れています。
平野レミさんが「料理研究家」ではなく「料理愛好家」と名乗っていることにも、和田誠さんとの関わりがあります。専門家として料理を研究する人というより、料理が好きで家庭の中から発想を生み出す人という平野レミさんの立ち位置に、この呼び方はよく合っています。イラスト、映画、文章など多くの表現分野に関わった和田誠さんだからこそ、妻の個性を既存の肩書に押し込めず、その人らしい呼び名を考えたのでしょう。
和田誠さんは2019年に亡くなりましたが、平野レミさんはその後も折に触れて夫との思い出を語っています。息子やその妻たちも含めた現在の家族関係を見ると、和田誠さんとの結婚が一つの大きな分岐点だったことが分かります。歌手だった平野レミさんと、多彩な創作活動を行う和田誠さんの家庭から、音楽へ進んだ長男、ものづくりへ進んだ次男が育ち、さらに女優や料理家が家族に加わりました。
平野家から和田家へと家系をたどると、1972年の結婚は単なる夫婦の出発点にとどまりません。現在知られている平野レミさん一家の形は、平野レミさんと和田誠さんが出会い、互いの感性を尊重しながら家庭を築いたところから始まっています。
子供は何人なのか―長男・次男と三男坊と呼ばれる人物の違い
平野レミさんと和田誠さんの子供として広く紹介されているのは、長男の和田唱さんと次男の和田率さんの2人です。
「子供が3人」「三男がいる」と受け取られることがありますが、家族構成として示されている実子は2人であり、「三男坊」という表現は別の人物との親しい関係を表したものとして分けて見るのが自然です。
長男の和田唱さんは1975年生まれで、ロックバンドTRICERATOPSのボーカルとギターを担当してきたミュージシャンです。次男の和田率さんは1979年生まれで、広告やクリエイティブの仕事を経た後、母の発想を生かしたキッチン用品ブランド「remy」の運営や商品開発などに携わってきました。家族を紹介する記事や平野レミさん本人のインタビューでも、息子について語る際はこの2人が登場します。
平野レミさん自身も、子育てを振り返るインタビューで「二人の息子」の性格の違いについて詳しく話しています。幼い頃から兄弟はかなりタイプが違ったそうです。遠足を前にした長男の唱さんは、当日になって水筒が見つからず慌てるようなタイプだった一方、次男の率さんはずっと前から準備を進めるほど慎重だったといいます。同じ家庭で同じ母親に育てられても、性格がまるで違うことを平野レミさんは面白そうに振り返っています。
このように本人の子育ての話でも、兄と弟という2人の関係が一貫して語られています。成人後の進路も対照的で、唱さんは音楽へ進み、率さんは広告や商品開発などの分野へ進みました。母の料理をそのまま受け継いで同じ職業になったわけではなく、それぞれが自分の得意な領域で活動しているところにも、自由な家庭の雰囲気が表れています。
では、「三男坊」という言葉はどこから出てくるのでしょうか。日本経済新聞には平野レミさんによる『かわいい三男坊』という題の記事があり、そこでは「あっくん」と呼ばれるピアニスト・作曲家の山中惇史さんとの交流が綴られています。2人は2023年春に宮崎国際音楽祭の仕事で出会い、料理と音楽という共通の話題を通じて親しくなったとされています。山中さんは平野レミさんの家を訪ね、料理や菓子を持ってくるような間柄になったそうです。
題名に「三男坊」とあるため、家族関係を知らずに見ると実の三男だと受け取りやすいところですが、山中さんは和田誠さんとの間に生まれた息子として紹介されている人物ではありません。親しい年下の相手を、家族のような距離感で表現した題名と見るのが適切です。長男・次男という呼び方と、親愛を込めた「三男坊」が混ざることで、子供が3人いるように見えるのでしょう。
さらに、和田率さんと和田明日香さんには3人の子供がいるため、「3人」という数字が平野レミさん周辺の家族紹介で登場することもあります。この3人は平野レミさんの孫にあたり、本人の子供とは世代が異なります。家系図を読む際には、平野レミさんの実子2人と、次男夫婦の3人の子供、そして親しい年下の人物に使われた「三男坊」という表現をそれぞれ分けると、家族構成が分かりやすくなります。
平野レミさんの子供は和田唱さんと和田率さんの2人と捉えるのが、本人の発言や家族紹介とも一致します。「三男」という言葉だけを切り取るのではなく、誰との関係を表しているのかまで見ることが大切です。
長男・和田唱と上野樹里の結婚で広がった家族関係
平野レミさんの長男・和田唱さんは2016年に女優の上野樹里さんと結婚しており、上野樹里さんは平野レミさんにとって長男の妻にあたります。
この結婚によって平野家と和田家の家系に上野樹里さんが加わり、音楽、演技、料理という異なる分野で活動する家族のつながりがさらに広がりました。
和田唱さんはTRICERATOPSのボーカルとギターを担当し、長年音楽活動を続けてきたミュージシャンです。父の和田誠さんはイラストレーションや映画などの分野、母の平野レミさんは歌と料理の分野で活躍してきたため、唱さんも創作に親しむ家庭で育ったことになります。ただし、親と同じ道をそのまま選んだわけではなく、自身はロック音楽を中心に独自の活動を築いてきました。
上野樹里さんは俳優として数多くの作品に出演してきました。2016年に唱さんと結婚したことで、平野レミさんとは義理の親子という関係になりました。結婚当初から2人のやり取りはたびたび注目されましたが、家族として時間を重ねる中で、単なる形式上の関係ではなく、互いを気遣う様子が伝えられるようになっています。
特に印象深いのが、2019年に和田誠さんが亡くなった後の家族の支え合いです。平野レミさんが大きな悲しみの中にいた時、上野樹里さんが唱さんの存在を示しながら励ました場面が、平野レミさんの家族を扱う文章などで紹介されています。夫を失った平野レミさんに対し、亡くなった和田誠さんから続く家族が今もそばにいることを伝えようとした行動で、義理の母と長男の妻という枠を越えた温かな関係が伝わります。
平野レミさんと上野樹里さんは、一緒に写った姿が話題になることもあり、互いを自然に受け入れている様子が見られます。上野樹里さん自身も料理に触れる場面があり、料理を中心に家族が集まる和田家の空気に溶け込んでいることがうかがえます。一方で、上野樹里さんを料理家の和田明日香さんと混同しないようにしたいところです。上野樹里さんは長男・唱さんの妻で、和田明日香さんは次男・率さんの妻という関係です。
2026年には平野レミさんと和田唱さんが『徹子の部屋』で親子共演し、家庭での料理について語る場面もありました。唱さんは、テレビで紹介される大胆な料理ばかりを子どもの頃から食べていたわけではなく、家では焼き魚など普通の家庭料理も多かったという趣旨の話をしています。視聴者が抱く平野レミさんのイメージと、息子から見た母親の姿に少し差があるところも、親子ならではの楽しいエピソードです。
家系図の上では、上野樹里さんは長男の結婚によって加わった人物です。しかし家族の歩みを見ると、単に線で結ばれるだけの存在ではありません。和田誠さんを失った後の平野レミさんを支え、唱さんとともに和田家の現在を形づくる家族の一人になっています。文化や芸術の世界で活動する人が世代をまたいでつながっていることも、平野レミさんの家系が広く関心を集める理由の一つでしょう。
次男・和田率と和田明日香が受け継ぐ食のつながり
平野レミさんの次男は和田率さんで、その妻が料理家・食育インストラクターの和田明日香さんです。
率さんは母の発想を商品やブランドとして形にする仕事に携わり、明日香さんは結婚後に料理を学びながら料理家へ進んだため、2人はそれぞれ異なる形で平野レミさんの「食」を受け継いでいます。
和田率さんは慶應義塾大学を卒業後、広告クリエイティブの分野で経験を積み、2014年にはキッチン用品ブランド「remy」を立ち上げました。母・平野レミさんが長く大切にしてきた「キッチンから幸せ発信」という考えを受け継ぎ、調理器具の企画や開発に携わっています。母と同じようにテレビで料理を披露する立場ではありませんが、平野レミさんのアイデアを実際に使える道具へ落とし込む役割を担ってきました。
幼少期の率さんは、兄の唱さんとは対照的に準備を早く進めるタイプだったと平野レミさんが語っています。遠足の前には母がきちんと起きられるか気にしたり、持ち物をかなり早く用意したりする子どもだったそうです。自由な母を見ながら育ったことで、率さんには自然と計画性や支える力が身についたのかもしれません。大人になってから母の料理活動を商品開発やブランド運営の側から支えている姿を見ると、子どもの頃の性格とのつながりを感じさせます。
妻の和田明日香さんは、現在では料理家としてテレビや書籍などで活躍していますが、結婚当初から料理が得意だったわけではないことを自身の歩みとして語っています。率さんとの結婚後、平野レミさんのいる和田家で料理に触れ、経験を積みながら食の仕事へ進んでいきました。料理家として活動するようになった後も、平野レミさんと一緒に料理をする姿がテレビなどで見られ、義理の親子でありながら仕事でも共演する関係になっています。
明日香さんが平野レミさんの料理をそのまま再現するだけではない点も興味深いところです。たとえば平野レミさんの「にらだれ」をもとに、子どもが食べやすいようチーズを加えて自分なりに変化させた料理も紹介されています。受け継ぐという言葉からは同じ味を守る姿を想像しがちですが、和田家では元の発想を大切にしながら、次の世代が自分たちの暮らしに合わせて作り替えていることが分かります。
率さんと明日香さんには3人の子供がおり、明日香さんは3児の母としても紹介されています。平野レミさんから見ると孫の世代まで家族が広がっていることになります。率さん自身も子どもの弁当作りに取り組み、その経験を『お弁父』という著書につなげました。母が家族のために料理を作ってきたように、息子の世代でも食事を通した親子の関わりが続いているところが特徴的です。
この一家では、「料理をする人」だけが食のつながりを担っているわけではありません。平野レミさんは料理を考えて伝え、率さんはその考えを道具やブランドの形にし、明日香さんは自身の家庭や子育てに合う料理へ発展させています。同じ食というテーマでも役割が異なるため、それぞれの個性が失われていません。
平野レミさんの家系を現在の世代まで見ると、料理は単なる職業の共通点ではなく、家族同士を結ぶものとして続いています。率さんと明日香さん夫妻は、平野レミさんから受け取ったものをそのまま守るのではなく、それぞれの方法で次の形へ広げている存在といえるでしょう。
平野レミの家系図を総括―先祖から現在の家族まで
- 平野レミは東京都出身の料理愛好家・シャンソン歌手である
- 父方の祖父はアメリカ人のヘンリー・パイク・ブイ、祖母は日本人の平野駒である
- ブイ家のさらに古いルーツはスコットランドへつながり、先祖には王直属のワインマスターを務めた人物がいたと紹介されている
- ナポレオン本人の子孫と断定できる系譜は示されておらず、伝わっているのは妻ジョゼフィーヌ側との血縁説である
- 父・平野威馬雄はアメリカ人の父と日本人の母を持つフランス文学者で、戦後は厳しい境遇にあった子どもたちの支援にも取り組んだ
- 平野レミは父がハーフにあたるため、家系上はクオーターと捉えられている
- 母・平野清子は料理上手で、幼い平野レミが自由に台所へ立つ環境を支えた
- 平野レミはシャンソン歌手として活動した後、1972年にイラストレーターの和田誠と結婚した
- 和田誠との間に生まれた実子として紹介されているのは、長男・和田唱と次男・和田率の2人である
- 「三男坊」という表現はピアニスト・作曲家の山中惇史との親しい交流を示す題名に使われたもので、実子の三男を示すものではない
- 長男・和田唱はミュージシャンとして活動し、2016年に女優の上野樹里と結婚した
- 次男・和田率はキッチン用品ブランド「remy」に携わり、母の発想を商品や活動へつないでいる
- 和田率の妻・和田明日香は結婚後に料理を学び、料理家・食育インストラクターとして活動している
- 和田率と和田明日香には3人の子供がおり、平野レミにとって孫の世代まで家族が広がっている
- 平野レミの家系図には、文学、芸術、音楽、演技、料理を通じて世代ごとに異なる形で表現を続ける家族のつながりが見られる

