二子山親方の次男の死因は何だった?1歳で急死した雅高との別れ

二子山親方の次男の死因は何だった?1歳で急死した雅高との別れ

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。
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元大関・雅山として土俵を沸かせ、現在は二子山部屋で若い力士を指導する二子山親方・竹内雅人さん。

弟子が大けがをした際には30年ぶりに丸刈りにし、行動で寄り添う姿勢を見せるなど、現役引退後も師匠として力士一人ひとりと向き合っています。

そんな二子山親方については、幼くして亡くなった次男・雅高君のことや、その死因がどのように伝えられてきたのかが気になるという声も多いようです。

あわせて、長男・雅功君の学校や陸上競技での歩み、妻・侑加さんの大学や二子山部屋の女将としての姿にも触れていきます。

この記事では、二子山親方の次男の死因を中心に、家族にまつわる事実関係を確認できる情報に沿って紹介します。

二子山親方の次男の死因は何だった?確認できる事実と家族に残る記録

  • 次男・雅高はいつ亡くなった?幼くして急死した当時の経緯
  • 死因は明らかになっている?伝えられている内容と確認できる範囲
  • 引退相撲で長男が次男の写真を首にかけて土俵に上がった出来事
  • 年寄名の下の名が「雅高」へ変わった時期と、その前後の歩み
  • 子供は何人?長男・雅功と次男・雅高の家族構成

次男・雅高はいつ亡くなった?幼くして急死した当時の経緯

 

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二子山親方の次男・雅高さんは、2013年6月に1歳で急死したと報じられています。当時の二子山親方は、元大関・雅山としての現役生活を終えたばかりの時期でした。2013年3月場所を最後に土俵を退き、力士から親方へと人生の大きな節目を迎えていた中で、同じ年の6月に次男との別れを経験したことになります。

雅高さんの死去について具体的に確認できるのは、二子山親方の引退相撲を伝えた2014年2月の記事です。東京・両国国技館で行われた引退相撲では、「昨年6月に1歳で急死した次男雅高ちゃん」と紹介されています。2014年の記事で「昨年6月」と記されているため、亡くなった時期は2013年6月と読み取れます。幼い子供の死という非常にデリケートな出来事であることから、当時の報道でも詳しい経過が長く説明されているわけではありません。

一方、二次的な記事の中には、雅高さんについて「1歳11か月」と記しているものや、生まれた年を2012年としているものもあります。ただし、「2012年生まれ」「2013年6月に1歳11か月」という記述は年月の組み合わせにずれが生じるため、そのまま一続きの確定事項として扱うのは適切ではありません。信頼性の高い報道で直接確認できる範囲では、「2013年6月に1歳で急死した」というところまで押さえておくのが慎重でしょう。

この出来事が起きた2013年は、二子山親方にとって現役引退という大きな転機の年でもありました。3月場所限りで引退した後は、土俵に上がる力士ではなく、後進を指導する年寄として歩み始めています。その数か月後に雅高さんが亡くなり、翌2014年2月には両国国技館で引退相撲が開催されました。相撲人生の区切りと家族の大きな出来事が、短い期間に重なっていたことが分かります。

2013年から2014年にかけての主な流れ

時期 出来事
2013年3月 雅山として現役を引退
2013年6月 次男・雅高さんが1歳で急死したと報じられる
2014年2月 東京・両国国技館で引退相撲と断髪式を開催

雅高さんについては、亡くなった時の詳しい状況まで広く伝えられているわけではありません。ただ、後の引退相撲では家族が雅高さんの写真とともに土俵へ上がっており、二子山親方のその後を知るうえでも、この出来事は家族の歩みと切り離せないものとして伝えられています。

死因は明らかになっている?伝えられている内容と確認できる範囲

雅高さんの具体的な死因は、確認できる信頼性の高い報道では明らかにされていません。2014年の引退相撲を伝えた記事では、2013年6月に1歳で「急死した」と報じられているものの、病名や死亡に至った原因についての説明はありません。そのため、二子山親方の次男の死因について、特定の病気や症状を確定した情報として紹介することはできません。

「急死」という言葉から、何らかの病気だったのではないかと考えたくなるかもしれません。ただし、急死は亡くなり方の経過を表す言葉であって、それ自体が病名を示すものではありません。事故だったのか、急な体調変化だったのか、以前から治療を受けていたのかといった事情も、主要な報道からは読み取れません。ここを想像で埋めてしまうと、本来発表されていない内容を事実のように扱うことになってしまいます。

二子山親方の次男の死因について扱った一部の二次的な記事では、乳幼児突然死症候群、いわゆるSIDSではないかという説に触れているものもあります。しかし、それらの記事でも本人や家族による説明を根拠として示しているわけではなく、可能性として語られているにとどまります。SIDSは医学的な診断を伴うものですから、家族や医療機関からの説明が確認できない状況で、雅高さんに当てはめることはできません。

また、別の記事には「病気だったのでしょう」といった表現も見られますが、これも病名や本人側の発言が示された説明ではありません。「急死した」という事実と、「病気が死因だった」という説明は分けて考える必要があります。少なくとも、二子山親方や侑加さんが具体的な病名を明かした発言、あるいは当時の信頼できる報道で死因を特定した記述は、ここで確認できる内容には含まれていません。

確認できることと慎重に扱いたいこと

内容 扱い
2013年6月に亡くなった 報道で確認できる
当時1歳だった 報道で確認できる
急死だった 報道で確認できる
特定の病気が死因だった 病名を示す確かな説明は確認できない
SIDSだった 二次的な記事で語られた説であり、確定情報ではない

二子山親方の次男の死因について知りたい場合は、「2013年6月に1歳で急死したことは報じられている一方、具体的な原因までは伝えられていない」と捉えるのが最も事実に沿っています。幼い家族の死に関わる話だからこそ、病名を推測して結び付けるのではなく、家族から伝えられている範囲と外部で語られた説を分けて見ておくことが大切です。

引退相撲で長男が次男の写真を首にかけて土俵に上がった出来事

2014年2月1日に東京・両国国技館で行われた二子山親方の引退相撲では、長男・雅功さんが亡くなった弟・雅高さんの写真を首にかけて土俵に上がりました。当時4歳だった雅功さんは父親と土俵入りを行った後、「最後の取組」として二子山親方と実際に相撲を取っています。

この日は、元大関・雅山として長く土俵を務めた二子山親方にとって、現役生活を締めくくる大きな行事でした。会場となった両国国技館には約8000人が集まり、断髪式では先代武蔵川親方の石山五郎さんら約270人がはさみを入れ、最後は師匠の藤島親方が大銀杏を切り落としています。大関まで上り詰めた力士としての歩みに区切りをつけ、親方として次の道へ進む場でした。

その晴れの舞台に、前年6月に亡くなった雅高さんも「写真」という形で家族と一緒に参加していました。長男の雅功さんが写真を首にかけて土俵へ上がったことは、当日の報道でも具体的に伝えられています。単に断髪式を行うだけではなく、二人の息子とともに土俵に立つ形になった点は、この引退相撲を象徴する場面の一つといえるでしょう。

雅功さんとの「最後の取組」では、雅功さんが押し出しで父親に勝っています。二子山親方は事前に親子で練習していたことにも触れ、「強くなっているので楽しみ」「夢がまた1つかないました」と喜びを語っていました。支度部屋では、雅功さんが「お相撲さんになりたい」と話し、二子山親方が笑顔を見せたことも報じられています。現役を退く父親と、相撲に興味を持つ幼い息子が土俵で向き合う、節目らしい場面でした。

妻の侑加さんもこの引退相撲に立ち会っています。当時の報道では、侑加さんが二子山親方について「さらに優しく変わった」と話したことが紹介されています。ただし、この言葉と雅高さんの死を直接結び付けて、心境の変化の原因まで断定することはできません。家族に大きな出来事があった後の発言として伝えられている、というところまでを受け止めるのが自然です。

写真を身につけた雅功さんと土俵に立ったことからも、雅高さんの存在が引退相撲の場から切り離されていなかったことが分かります。二子山親方にとっては現役最後の節目であり、家族にとっては二人の息子とともにその瞬間を迎えた一日として記録されています。

年寄名の下の名が「雅高」へ変わった時期と、その前後の歩み

二子山親方は現役引退後、年寄名を「二子山雅人」から「二子山雅高」へ変更しており、日本相撲協会のプロフィールにもその履歴が記載されています。資料には2013年9月から下の名を「雅高」にしたとする記述もあり、少なくとも2014年2月の引退相撲の時点では「二子山雅高」として紹介されています。

まず時系列をたどると、二子山親方は雅山哲士として長く現役を続け、2013年3月場所限りで引退しました。明治大学を中退して1998年名古屋場所に幕下付け出しで初土俵を踏み、史上初となる幕下付け出しから4場所連続優勝を達成。1999年春場所に新入幕し、その後は大関まで昇進しています。大関から陥落した後も長く現役を続け、十両だった2013年春場所を最後に土俵を去りました。

引退後は年寄「二子山」として指導者の道へ進みました。日本相撲協会が掲載している年寄プロフィールでは、年寄名履歴が「二子山 雅人→二子山 雅高」となっています。「雅人」は二子山親方の本名・竹内雅人さんと同じ名ですから、当初は本名の下の名を用いていたことが分かります。その後、「雅高」へ変更したという流れです。

ここで注目されるのが、次男の名前も雅高さんだったことです。一部の記事では、次男が2013年6月に亡くなった後、同年9月から二子山親方が年寄名の下の名を「雅高」に変更したと説明されています。ただし、日本相撲協会のプロフィールで直接確認できるのは「雅人から雅高へ変更した」という履歴であり、変更理由までは記載されていません。次男と同じ名前であることは確認できますが、「亡くなった次男の名を残すためだった」といった本人の意図まで、推測だけで言い切らない方がよいでしょう。

引退後の流れを時系列で見ると分かりやすい

時期 主な出来事
2013年3月 雅山として現役を引退
2013年6月 次男・雅高さんが1歳で急死
2013年 年寄として二子山を名乗り、下の名も「雅人」から「雅高」へ変更
2014年2月 両国国技館で引退相撲・断髪式
2018年 藤島部屋から独立し、二子山部屋を創設

その後、二子山親方は2018年に藤島部屋から分家独立して二子山部屋を設立しました。現在の二子山部屋公式サイトでも、師匠は「二子山雅高」と表記されています。つまり「雅高」という名は、一時的な呼び方ではなく、親方として弟子を育てる現在の名前へと受け継がれています。変更の理由を想像で補うのではなく、現役引退後に「二子山雅人」から「二子山雅高」へ変わり、その名で部屋を率いているという事実を押さえておくと、経緯が分かりやすくなります。

子供は何人?長男・雅功と次男・雅高の家族構成

二子山親方と妻・侑加さんの間には、長男・雅功さんと次男・雅高さんの2人の男の子が誕生しています。長男の雅功さんは2009年9月13日生まれで、次男の雅高さんは幼い頃に亡くなりました。そのため、2014年の引退相撲を伝えた記事では、家族について侑加さんと「1男」と記載されています。

二子山親方は、現役力士だった2008年に侑加さんと結婚しています。侑加さんは福岡県出身で、大学生だった頃に九州場所の稽古を見学したことが二子山親方との出会いにつながりました。交際を経て夫婦となり、その翌年の2009年9月13日に長男の雅功さんが誕生しています。

雅功さんの名前には、二子山親方の本名「雅人」にも使われている「雅」の字が入っています。二次的な記事では、長男の名前について、テレビ番組「ジャンクSPORTS」への出演を通じて縁があった浜田雅功さんの名前から「雅功」をもらったと二子山親方が説明したことも紹介されています。親方自身が番組出演によって自身の印象が変わり、結婚にもつながったとして、浜田雅功さんに名前を使いたいと頼んだというエピソードです。

その後、夫婦の間には次男の雅高さんも誕生しました。しかし雅高さんは2013年6月、1歳で急死したと報じられています。具体的な死因は伝えられていません。2014年2月の二子山親方の引退相撲では、当時4歳だった兄の雅功さんが雅高さんの写真を首にかけて土俵へ上がっており、家族4人を意識した形で父親の節目を迎えた様子が伝えられています。

二子山親方の家族関係

人物 関係 確認できる内容
竹内侑加さん 妻 二子山部屋の女将として部屋を支えている
雅功さん 長男 2009年9月13日生まれ。幼少期には相撲にも親しんだ
雅高さん 次男 2013年6月に1歳で急死したと報じられている

長男の雅功さんは、幼い頃には相撲に取り組んでいました。2014年の引退相撲では父親との「最後の取組」を行い、支度部屋で「お相撲さんになりたい」と話したことも報じられています。その後は競技の軸を陸上へ移し、中学生になると1500メートルなどの長距離種目に取り組むようになりました。2024年には全日本中学校陸上競技選手権の男子1500メートルに出場するまで成長しています。

このように、二子山親方の子供は長男と次男の2人です。雅高さんが幼くして亡くなったため、後年の記事で「妻と1男」と表現されることがありますが、それは子供が最初から1人だったという意味ではありません。家族の経緯を時系列で見ると、雅功さんと雅高さんという2人の息子が誕生し、その後も雅高さんの存在が引退相撲や「二子山雅高」という現在の年寄名を考えるうえでたびたび登場していることが分かります。

二子山親方の次男の死因とあわせて確認したい家族の現在と師匠としての歩み

  • 長男は相撲の道へ進んだ?幼少期の土俵入りから陸上競技を選ぶまで
  • 長男の学校はどこ?中学での全国大会出場から高校で続ける陸上競技
  • 妻の出身大学はどこ?西南学院大学卒業から結婚までの歩み
  • 病気で緊急入院したのはなぜ?敗血症と診断された経緯とその後
  • 丸刈りにした理由は?大けがした弟子へ行動で寄り添った背景
  • 二子山親方の次男の死因と家族の歩みを総括

長男は相撲の道へ進んだ?幼少期の土俵入りから陸上競技を選ぶまで

長男・雅功さんは幼い頃に相撲へ取り組んでいましたが、中学生になると中長距離走に力を入れるようになり、現在は陸上競技の道を歩んでいます。元大関を父に持つことから相撲を続ける姿を想像されやすいものの、成長する中で自分に合った競技を見つけ、父親とは異なる舞台で力を伸ばしてきました。

雅功さんが相撲と深く関わっていたことが分かる代表的な出来事は、2014年2月に東京・両国国技館で行われた二子山親方の引退相撲です。当時4歳だった雅功さんは、亡くなった弟・雅高さんの写真を首にかけて父親と土俵入りをし、その後には「最後の取組」として二子山親方と実際に相撲を取りました。取組では雅功さんが押し出しで勝ち、支度部屋では「お相撲さんになりたい」と話したことも伝えられています。幼い頃から父親の仕事を間近で見ており、相撲が身近な競技だったことがうかがえます。

その後も小学生時代には、まわしを締めて相撲の稽古に励んでいました。ただ、中学生になると進路は少しずつ変化します。東京・葛飾区立新宿中学校に進学した雅功さんは陸上部で中長距離走に取り組み、特に1500メートルで力を発揮するようになりました。力士のような体格や瞬発力を生かす競技ではなく、持久力とスピードの両方が求められる種目に魅力を感じ、走り込む日々を送るようになったと報じられています。

転向後すぐに順調だったわけではありません。中学2年時には1500メートルで好成績を残した一方、その後は成長痛などの影響でフォームを崩し、膝への負担から数か月にわたって十分に走れない時期もありました。二子山親方は相撲と陸上では競技が違うとして、技術面へ深く口を出すのではなく、元トップアスリートとして「焦らないこと」や「今、走れていることに感謝すること」を伝えていたそうです。

この距離感は、親子の関係を見るうえでも興味深いところです。父親が元大関だからといって、息子を相撲へ進ませようと決めつけるのではなく、本人が力を発揮できる競技を見守っています。雅功さん自身も2024年の全国大会出場時には、将来の目標についてすぐに決めるのではなく、これから考えていく趣旨の話をしていました。

幼少期の相撲経験がなくなったわけではなく、土俵で培った粘りや父親から受けたアスリートとしての助言が、陸上にもつながっているように見えます。相撲一家の長男であっても進路は一つではなく、雅功さんは相撲を経験したうえで、自分の得意分野として中長距離走に向き合ってきたという流れです。

長男の学校はどこ?中学での全国大会出場から高校で続ける陸上競技

長男・雅功さんは中学時代に東京都葛飾区立新宿中学校へ通い、2025年からは千葉県の八千代松陰高校で陸上競技を続けています。中学3年時には男子1500メートルで全国大会へ出場しており、高校進学後も長距離ランナーとして競技を継続していることが伝えられています。

大きく注目されたのは2024年7月です。中学3年生だった雅功さんは、東京・八王子市の上柚木公園陸上競技場で行われた東京都中学校総合体育大会の男子1500メートルに出場しました。全日本中学校陸上競技選手権へ進むには4分8秒50という参加標準記録を突破する必要があり、予選では4分14秒29と届きませんでした。

ところが翌日の決勝では、厳しい暑さの中で4分8秒20までタイムを縮め、自己ベストを更新。標準記録をわずか0秒30上回り、全国大会の出場権を獲得しました。順位も2位で、関東大会への出場も決まっています。前年秋には中学2年1500メートルで4分11秒79を記録して優勝していましたが、その後は成長痛や膝の不調で数か月走れない時期もあったため、全国切符をつかむまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。

2024年8月19日には、福井県営陸上競技場で行われた全日本中学校陸上競技選手権の男子1500メートル予選第7組に出場。4分9秒81で5位となりました。決勝には進めなかったものの、レース中には2度先頭に立つ積極的な走りを見せています。現地で応援していた二子山親方も、守りに入らず攻める姿勢を評価していました。

中学時代の主な歩み

時期 内容
中学2年 都大会の1500メートルで4分11秒79を記録して優勝
中学2〜3年 成長痛や膝の不調で十分に走れない時期を経験
2024年7月 東京都中学校総合体育大会で4分8秒20を記録し全国大会出場を決める
2024年8月 全日本中学校陸上競技選手権の1500メートルに出場
2025年 八千代松陰高校へ進学し陸上競技を継続

高校については、2026年3月時点の報道で、雅功さんが千葉県の八千代松陰高校1年生で、長距離ランナーとして競技を続けていることが確認できます。八千代松陰高校は陸上競技でも知られる学校であり、中学時代に全国大会を経験した雅功さんにとって、さらに競技力を高める環境へ進んだ形です。

母親の侑加さんも息子の陸上を見守っています。2026年に青山学院大学の選手寮を訪れた際には、寮母の原美穂さんへ、伸びる選手の親にはどのような共通点があるのかを尋ねていました。相撲部屋の女将として若い力士を支えながら、一方では高校生ランナーの母親として息子の成長に向き合っていることが分かります。

雅功さんは、父親と同じ相撲ではなく陸上を選びましたが、全国大会を経験するほど本格的に競技へ取り組んでいます。中学での故障を乗り越え、全国の舞台を踏み、高校でも長距離を続けているため、「二子山親方の息子は今どうしているのか」という点では、陸上競技に打ち込んでいる高校生というのが現在につながる姿です。

妻の出身大学はどこ?西南学院大学卒業から結婚までの歩み

二子山親方の妻・竹内侑加さんは、福岡市にある西南学院大学を卒業しています。大学生だった頃に九州場所の朝稽古を見学したことが二子山親方との出会いにつながり、交際約3か月でプロポーズを受け、交際開始から約10か月で結婚しました。

侑加さんは福岡県出身で、二子山親方と知り合った当時は大学生でした。2019年に放送されたテレビ番組への密着取材では、友人に誘われて九州場所の朝稽古を見に行ったことがきっかけだったと本人が振り返っています。稽古見学に来ていた侑加さんを見た、当時現役力士だった雅山こと二子山親方が一目ぼれし、その場で声をかけたそうです。

侑加さんにとって、最初から恋愛映画のような雰囲気だったわけではなかったようです。当時の二子山親方はまげを結った大型力士で、侑加さんは後の取材で、体も大きく、とにかく迫力があって怖かったという趣旨の第一印象を語っています。それでも交流を重ねる中で交際に発展し、約3か月後には二子山親方から「俺の所に就職して欲しい」という言葉でプロポーズを受けたと明かしています。

学歴については、西南学院大学を2008年3月に卒業したとする記録があります。卒業後は証券会社への就職が内定していましたが、二子山親方との結婚を選び、会社員としてではなく力士の妻として新しい生活へ進みました。結婚発表の際には、二子山親方が侑加さんについて「入社先が自分になった」という趣旨のユーモアを交えた発言をしたことも伝えられています。

2人は交際開始から約10か月で結婚しました。結婚当時、二子山親方はまだ現役力士です。その後、長男・雅功さん、次男・雅高さんが誕生し、2013年に二子山親方が現役を引退。2018年に藤島部屋から独立して二子山部屋を創設すると、侑加さんは女将として本格的に力士たちの生活を支える立場になりました。

現在の侑加さんの仕事を見ると、大学卒業後に一般企業へ就職する予定だった人生から、大きく方向が変わったことが分かります。相撲部屋の女将は、単に親方の妻というだけではありません。力士たちと一つ屋根の下で生活し、食事や生活面を支えながら、部屋全体の雰囲気にも気を配る役割です。2026年には、春場所の留守番期間を利用して東京・町田市の青山学院大学選手寮を訪れ、寮母の原美穂さんから選手との接し方などを学んでいます。

侑加さん自身は、力士が強くなっていく過程を目の前で見られることが女将としての喜びだと話しています。大学生として朝稽古を見学したことから始まった縁が、結婚、子育てを経て、現在は二子山部屋を支える女将という仕事につながりました。西南学院大学卒業という学歴だけでなく、その後どのように相撲界へ入っていったのかまで見ると、侑加さんの歩みがより分かりやすくなります。

病気で緊急入院したのはなぜ?敗血症と診断された経緯とその後

二子山親方は2023年春場所後、腎結石が尿管に詰まったことをきっかけに体調が悪化し、敗血症と診断されて10日間緊急入院しました。本人は医師から、病院へ運ばれるのがさらに遅れていれば命に関わる状態だったと説明されたことを明かしています。

体調に異変を感じ始めたのは、2023年春場所千秋楽の2日後にあたる3月28日頃でした。当時、二子山親方は日本相撲協会の審判部に所属しており、翌29日の番付編成会議にも出席しています。その後、宿泊していた兵庫県西宮市のホテルへ戻ったところ、さらに体調が悪くなり、自ら救急車を呼んで病院へ搬送されました。

病院で診断された病名が敗血症でした。敗血症は感染症などをきっかけに全身の臓器へ大きな影響が及ぶことがある重い状態です。二子山親方は当時、血圧の上が80程度まで下がっていたことも明かしています。それまでは血圧を下げる薬を服用していたにもかかわらず、入院時には逆に血圧を上げる薬を使うほど状態が悪化していました。

さらに本人は、医師から「あと1時間遅かったら亡くなっているところだった」という趣旨の説明を受けたと話しています。突然入院することになり、周囲に十分なあいさつもできなかったため、このまま命を落とすのではないかと本気で考えたそうです。二子山親方の病気について「かなり危険だった」と言われるのは、こうした本人の具体的な証言があるためです。

入院期間は10日間に及び、その間に体重は23〜24キロほど減ったといいます。大柄な元力士とはいえ、短期間でこれだけ体重が落ちたことからも、身体への負担が大きかったことがうかがえます。原因について二子山親方は、腎結石が尿管に詰まり、そこから身体の状態が崩れていったと説明していました。原因となった箇所については、手術で取り除けば問題ないとの説明を受け、退院後に手術を受ける予定だとも話しています。

一方で、入院中も師匠としての仕事から完全に離れていたわけではありません。二子山部屋には稽古場などを確認できるカメラがあり、入院している間も映像を見ながら弟子へ助言していたとされています。退院後は早い段階で稽古場へ戻り、直接指導を再開する意向も示していました。

この病気は、前半で扱った次男・雅高さんの死因とはまったく別の話です。「二子山親方」「病気」「死因」といった情報が近くに並ぶことで混同されることがありますが、2023年に敗血症で緊急入院したのは二子山親方本人です。本人は退院時に「生かされた命」という思いを語り、新弟子も入ってきたため再び頑張りたいと前向きな姿勢を示していました。

丸刈りにした理由は?大けがした弟子へ行動で寄り添った背景

二子山親方が2025年11月に丸刈りにしたのは、右膝に大けがを負って落ち込んでいた弟子の三田さんを、言葉だけではなく行動で励ましたいと考えたためです。高校3年以来およそ30年ぶりとなる丸刈りで、弟子と一緒に戦っている気持ちを示すための行動でした。

きっかけは2025年11月の九州場所です。東十両3枚目だった三田さんは、場所2日目に輝さんとの取組で右膝を負傷しました。その後、日本相撲協会へ「右膝前十字靱帯損傷で約3か月の休業を要する」とする診断書を提出し、休場することになりました。再出場はせず、今後は手術も視野に入れるほどの大けがでした。

三田さんはそれまで、幕下最下位格付け出しで初土俵を踏んだ後、7場所続けて勝ち越し、順調に番付を上げていました。十両まで昇進し、さらに上を目指していた最中での負傷だったため、本人の落ち込みは大きかったといいます。二子山親方は三田さんを幼い頃から知っていたこともあり、けがによる精神的なショックを強く感じ取っていました。

二子山親方が心配したのは、単に次の場所を休むことだけではありませんでした。本人が深く落ち込み、このままでは引退まで考えてしまうのではないかと思ったと話しています。そこで、「頑張れ」と声をかけるだけではなく、自分も同じ気持ちで戦っていることを目に見える形で伝えたいと考えました。

場所3日目の取組が終わった後、二子山親方は福岡市内で夜まで営業している理容店を知人に教えてもらい、午後9時過ぎに丸刈りにしました。髪を丸刈りにするのは、高校3年生だった1995年以来、およそ30年ぶりでした。高校時代にはインターハイで勝ちたいという思いから丸刈りにしたそうですが、今回は自分自身の試合のためではなく、弟子を支えるための行動だった点が大きく異なります。

現役時代の二子山親方は、頭から激しくぶつかる相撲を取っていたため、頭には傷もあり、長い間あまり短い髪型にはしてこなかったと話しています。それでも今回は、傷が見えることを恥ずかしいとは考えず、三田さんの苦しさが少しでも和らぐのであれば構わないという考えでした。外見を変えること自体が目的ではなく、「一緒に戦っている」と伝えることが中心にあったわけです。

このエピソードからは、二子山親方が師匠として弟子へどのように接しているのかも見えてきます。相撲部屋では技術や体力を教えるだけでなく、けがや敗戦で気持ちが折れそうな力士を支えることも親方の役目です。言葉だけでは届かないと感じた時に、自分自身も大きな変化を見せて寄り添うという方法を選びました。2023年には自身が重い病気から復帰し、その後も弟子の指導を続けてきた二子山親方ですが、丸刈りの出来事もまた、師匠として弟子と向き合う姿勢を象徴する一幕といえます。

二子山親方の次男の死因と家族の歩みを総括

  • 二子山親方は元大関・雅山であり、2013年3月場所限りで現役を引退した
  • 妻は竹内侑加で、西南学院大学を卒業している
  • 二子山親方と侑加の間には長男・雅功と次男・雅高の2人の息子が誕生した
  • 次男・雅高は2013年6月に1歳で急死したと報じられている
  • 雅高の具体的な死因は信頼できる報道では明らかにされていない
  • SIDSなどを挙げる記事もあるが、家族側が確認した事実として扱える内容ではない
  • 2014年の引退相撲では長男・雅功が雅高の写真を首にかけて土俵へ上がった
  • 二子山親方の年寄名は「二子山雅人」から「二子山雅高」へ変更されている
  • 長男・雅功は小学生時代に相撲へ取り組んだが、中学から中長距離走へ進んだ
  • 雅功は葛飾区立新宿中学校時代に男子1500メートルで全日本中学校陸上競技選手権へ出場した
  • 雅功は2025年に八千代松陰高校へ進学し、陸上競技を続けている
  • 侑加は大学生時代の九州場所の稽古見学で二子山親方と出会い、交際を経て結婚した
  • 二子山親方は2023年に腎結石をきっかけとする敗血症で10日間緊急入院した
  • 2025年には大けがをした弟子・三田を励ますため、約30年ぶりに丸刈りにした
  • 現在は二子山部屋の師匠として、家族に支えられながら弟子の育成にあたっている

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